台湾少数民族闘争史 80年代、ある台湾原住民運動指導者の回顧と運動

アキン・ロソラモン(胡徳夫) 台湾原住民権利促進会創会会長

5.民歌運動・社会運動

  「コロンビア珈琲庁」、「洛詩地鉄板焼」から「アイディア郷村歌曲屋」までは、たくさんの音楽愛好家の友人が必ず通った場所である。「コロンビア珈琲庁」で、私は、李双澤、余光中、楊弦、席徳進、胡菌夢、謝孝徳、呉楚楚、黄大城、陶至誠、王勃などたくさんのすばらしい友人と出会った。特に、双澤、楊弦は、私とはたくさんの時間を過ごしたが、その中でも李双澤は、私に影響を与え励ましてくれた最大の友人である。彼は、私が自分の民族歌謡を歌い、自分の民族の特色を表す新しい歌を作り出すのを励ましてくれた。彼の不断の奨めの下、私は、「匆匆」、「牛の背の上の少年」、「大武山美しき母」をつくった。また、卑南族の「美しき稲穂」、曹族の「青年の歌」、魯凱族の「収穫労働の歌」、そして台東知本卑南族の「海を臨む歌」を整理した。その中でも「美しき稲穂」の歌は国内外の聴衆に感動を与えた。楊弦も私に続いて、余光中教授の「郷愁四韻」「民歌手」「江湖上」などの詩に曲をつくった。
  李双澤は、「美麗島」「君は知っているか」「少年中国」「老鼓手」などの歌を作り、また至る所で「国父記念歌」を歌った。1974年の夏、李双澤は、私が国際寮で「美しい稲穂−個人音楽演唱会」を行うのを助けてくれた。この会は、私の初めての創作歌曲発表会で、また民歌手のはじめての発表会でもあった。この演唱会は、満員の観客に感動を与え、また私自身も感動した。演奏の内容は、当時は珍しい創作歌謡と本土の民謡が主であった。過去と決別し、アメリカの流行音楽に縛られた植民地とは違う自分の歌で大地と人民をたたえた。このことによって、私はもともと私の心の中に長い間あった「認知」の火種をもう一度感じ、またまだ燃え尽きていないのを感じた。もともと、一人の尊厳ある人間になるためには、徹底的に「私は何者であるか」という問いから自我確立を始める必要がある。しかし、私は「美しき稲穂」で自己を探した。「郷愁四韻」を歌うことで、海峡両岸のはぐれた肉親の気持ちを語りつくした。「老鼓手」を歌うことで、当時の政治タブーを打ち破った。
  三年後(1975年)、楊弦もつぎつぎと自分と余光中教授の作品を発表し、これらの作品は、文芸界を驚かせた。余光中教授が当代のおおくの創作歌手を定義して、私たちの歌を「民歌」と呼び、私たちを「民歌手」と呼んだ。学園の中でしだいに広まり、後に学園からすぐれた人たちが出てきた。これにより「学園民歌」とも呼ばれた。
  この新しい歌手たちの中で楊祖?(李双澤の母校淡江大学の後輩)は、最も時代を体現する先進性と胆識をそなえ、積極的に社会運動に参加し、歌声をもって理念を広めた。私と彼女は、共に李双澤の親友となり、党外の地下集会の中でいつも声をあげて「老鼓手」と「美麗島」などの禁歌を歌った。
  李兄さんは、1977年、淡水興化店の海辺で人を救うために身を投げ入れ、年若くして亡くなった。しかし、彼の残した歌と彼が人々に接した誠実な態度は、永遠に私たちの心の中に残っている。
  1975〜80年の間、はやくも私たちのような歌手はみな、テレビ局やラジオ局の常連になり、メディアを通して早く、広く人々に私たちを知ってもらうようになった。しかし、良い状態は長く続かなかった。はやくも私と楊祖?は、当局から歌うことを全面的に禁止された。多くの人たちが私たちは生存の道を知らないためにこのように落ちぶれたのだと思っていた。しかし私はただ一つのことを知っていた。私たちは単なる民歌手ではない。私たちの生命の中には、私たちの社会があり、私たちの心の中には一つの理想と責任がある。白色テロルの圧迫が及ばない場所は、私たちの歌声と理念が広がる場所であると。
  私は思い出す。私たち一群の歌手が、李蝶菲のラジオ番組のゲストとして歌いに行く準備をしていたとき、入り口の前で止められ、中に入るのを許されなかった。中広ラジオ局の董事長蒋孝武(蒋経国の次男)の部下で、ラジオ局に駐在している調査員(もともと大専時代、私の甥の同級生)が、入り口で私に対して詫びを述べて、私に特別に、私がすでに政府にメディアに出演することを全面的に禁止される通告がなされていることを知らせてくれた。楊祖?またそうであった。
  しかし、私たちは、依然として活動に参加し、特に党外活動に参加し、私たちの愛唱歌を歌い、街頭でたくさん歌った。1982年、私は正式に「党外編集作家聯誼会」に加入した。これは、反国民党政府の党外政治団体の中に参加した最初の「山地人」であった。各種の歌謡、講演活動を利用し、また党外雑誌を通じて、この大きな社会、つまり「原住民−台湾の主人」の境遇と困難を伝えた。
  1982年、「編集作家聯誼会」の中に「少数民族委員会」が成立し、私が呼びかけ人を務め、童春慶が副呼びかけ人を務めた。この年、高山青年雑誌(台大原住民青年の地下刊行物)が創刊され、はやくも私たちは、党外の漢人の友人、例えば、郭吉仁、張俊傑、林正杰、楊祖?、范巽緑、王志明などと一同に集まり、比較的自主的な「山地政治団体」をつくるつもりであった。その中の原住民学生の林文正、劉文津、鐘辰良、陳信雄は反対はしていないが、保留的態度を保持した。彼らは、この団体の中に漢人の比率が非常に多いと見ていて、すべて「山地人」がつくるべきであると思っていた。私は、私たちの力量を結合すべきであると思い、私たちに同情する友人と一緒に共同で国民党の圧迫に対抗することで、はじめて最初の成果を獲得することができると考えた。「権利促進会」が私が提起した団体名称の本質であった。
  会員を募集するため(当時はタブーであった)、私はひとりで北から出発して。台中、台南、屏東山区、高雄、台東を経て、花蓮まで、28名の創立会員を募集した。それは、童春発教授(排湾族、花蓮玉山神学院教授)、田雅各医師(布農族)、施努来、郭建平(この二人は蘭嶼の青年である)、麥春連(魯凱族)、林時樹(泰雅族、当時、仁愛郷衛衛生所の主任)、石明雄、汪啓聖(鄒族)、黄修栄、辜進富(泰雅族)などを含む。
  1982年、海山炭鉱の爆発は、多くの原住民同胞が被災した。私は、「編集作家聯誼会少数民族委員会」呼びかけ人の身分で、関心を引き付ける行動を発動し、また政府の所謂「山地政策」に対して厳しい批判を加えた。新公園で行った演奏講演会で、「山地のために歌う」歌を作り、歌を歌い、被災者のために義捐金を募った。当時、私は「なぜ?」という被災歌を一曲つくり、現場で演奏した。
  しかし、政府は逆に多くの警察を派遣し、私服で現場を巡回していた。私の妻、陳主恵は妊娠の身で公園でビラ配りをした。演奏に参加した原住民の青年は、ステージの上で声高く歌い、大声で切実に当局の政策に對する不満、政府の長きにわたる欺瞞、原住民の圧迫、その政策は民族絶滅政策であること、蘭嶼核燃料廃棄物保管場は、具体的な政府の人民を騙した建設であることなどを直接に訴えた。みんなは次々と党外雑誌で政府を告発する文章を発表した。台大の「高山青」の学生は私につぎのことを知らせてくれた。調査局はすでに人を派遣して彼らと接触し、ある人は脅され、私たちと公に会うのをやめさせられた。またある人は、私たちに会ってはいるが、すでに脅迫・買収されており、これにより必ず定期的に調査局の官員に向けて私の活動の報告を提出していた。
  私は次ぎのことを信じる。一人の原住民青年に対し、学業の道程で影響を受け、人身の安全が脅威を受けている状況の下で脅迫され、定期的に「補助金」を受け取っている状況はあったに違いない。 同時に、私の母親も国民党中央の高級党工(中央評議員)謝貴から約束させられて、母親を介して私が再びさらに政治団体を組織する方向に進まないように勧誘するよう期待された。最後に、中央党部は500万元を私にその他有名無実の社会団体を作り発展させる費用として調達してあげることができると言ってきた。しかし、原住民という名前で団体をつくることはできなかった。さもなければ、私は緑島などに送られて母親を驚かすこともできたが、しかし、結局、母親にはっきりと手を組むのを拒絶された。
  私の住んでいる花園新城の住居の電話は盗聴され、私の行動は絶えず人につけられ、私に絶えず接触してくる人は私たちの計画、動向を探っていた。私の義理の兄は、当時、家郷の郷長の職を担当していたが、いつも私を説得する仲介人になるよう要求された。私の家の中には、私を励まし支援してくれる妻がおり、私たちの子供、吉拉夫がいた。窓の外には祖霊が住む中央山脈の最北端があり、日中は私が山を見て、夜は山が私を見ている。どうすれば、こんなにも私を勇ましく前に進ませる声を振り払うことができるのだろうか!
  監視、監聴、威嚇とはおよそ何なのか?民族の没落に比べれば、そんなものはいかほどのものであろうか。1983年10月、私たち中核分子は、原住民権利促進会の組織活動を開始するつもりであった。成立大会の挙行を12月29日に予定した。成立大会の中で、あるメンバーが名づけるべきと提議した名前には「山地権利促進会」があり、「高山青」の学生が提議した「高山族権益促進会」があった。私が提議した一つの名称は、この前に私が常に各演奏会で使っていた前置きの言葉「私たちはもとから住んでいる台湾の民族である」であった。また、人類学者の王志明にさらに適切な英語の訳名をつけてもらうことをお願いした。その訳名は、「INDIGINIOUS PEOPLE」であった。これは中国語の「台湾原住民」の訳である。結果的に、この名称が開会会員の賛成の大部分を獲得して通過し、最後に新しく成立する団体は、正式に「台湾原住民権利促進会」と命名された。 (6へ)