台湾少数民族闘争史 80年代、ある台湾原住民運動指導者の回顧と運動

アキン・ロソラモン(胡徳夫) 台湾原住民権利促進会創会会長

4.台大・社会

  台湾大学は、自由、開放の学府と言われていた。しかし、依然として救国団が学生の社団活動を抑え、教官に学生運動を「監督」させていた!入学後、「旅北山地大専学生(北部大専院校)聯誼会」に入り、会長に選出された。この時、私は正式に救国団系の体系から離脱することを宣言して、自立して自ら聯誼活動を決定運営した。再び報告書を提出することはしなかった。この年行っていた活動は、「台湾で、私たちはいったい何者なのか?」、「私たち民族、社会は、いったいどんな問題を生み出しているのか?」などを巡る議題の座談討論会であった。
  教官は軍人であるが、緊密に救国団と一緒に連携していた。教官は私を呼び出して、私が常に救国団と連携して活動を行ってほしいと言った!多くの活動報告書を、毎学期提出すれば活動費用を多くもらえるが、私はこれは「買収」であることを知って従わなかった。これに従うことは、「脅迫」「弾劾」であった。私のやり方は学生社団管理条例に違反していると指摘された。私の思想は問題があるとも言われた。もし私があくまでも我が意を押し通そうとすれば、結果は想像もつかなかった。実際、私は彼らがしようとしていたことは、学生の思想、行動をコントロールすることであると知っていた。しかし、私たちがしようとしていることは、自分の意志で、自発的に反省し、思考し、行動することであった。教官の所謂結果は、成績を操作すること、軍事訓練の成績を操作すること、さらには、私を「新設の軍人監獄」に行かせ訓練を受けさせることも含んでいた。私は、私が携わっていた聯誼会から後に、私はすでに大学のブラックリストの名簿の中の一人であったことを知った。軍事訓練の成績は、毎学期補習を受けてぎりぎり合格をしていた。大学二年のときは、30点しかなかった。
  他の方面では、私は球場では、台大のアメリカン・フットボールの選手であった。高等中学の三年の時、かつて全省の試合で頭に大きな衝撃を受けて後遺症が残った。大学ではいつも再発して、口から泡を吹いてひきつけを起こす現象があり、薬を飲みつづけてもまだ良くなってはいなかった。ひきつけの病気の症状が重くなった。台大医院の診断は「頭部衝撃後遺症精神神経症」であった。医師に療養しなさいと言われ、私は次ぎの年休学手続を取った。石門水庫阿姆坪で六ヶ月休養したのち、徴兵を受けた。軍で一週間いた後、再診へて軍役が不適合であることが確定し、丁等体位により軍役を免除された。台北に戻って仕事をさがし、学校を辞めて社会で生活をはかる事にした。このときはすでに1971年になっていた。
  学校と社会は、もともと天と地ぐらい違う別の場所である。過去の大きな意気込みと偉くなろうという志もいきなり人波のなかに埋没してしまった。最初の仕事は、日中、松江路の恩主公廟前のビルの建築現場で鉄筋を繋げる仕事であった。夜は、卑南族の同郷「万沙浪」(後に有名な歌手になった)と、今風の合唱団を組織して、六福客桟の西洋レストランの夜総会で歌った。多くの故郷の若者たちが都市にやってきていたが、仕事場は特に北投、高雄の二つの仕事場であった。汐止、南港、樹林、基隆、高雄前鎮、草衙などの地はさらにある程度の「山地部落」をまとまって形成していた。平地人は、「蕃仔寮」と呼んでいた。遠洋漁業、建築労働、汽車の荷役、石炭坑夫などの重い仕事を生業としていた。私もその中の一人であった。
  1972年、父親が食道癌にかかった。私は独力で負担して、台北空軍総院へ転院させた。六福客桟の私は去り、単身、コロンビア大使館が経営している商業推進センター「コロンビア珈琲センター」で演奏し歌った。友人と台湾で初めての牛肉の鉄板焼きとパブが合体したレストラン「洛詩地」をつくり、夜は音楽も演奏した。収入が増加して、莫大な医療費を支払うことができるのを期待していた。父親は病魔と一年闘った後、私たちを置いて逝ってしまった。
  当時、ベトナム戦争が真っ盛りで、アメリカ反戦の声音が音楽の力を通して特に見えるようになった。台北はバーの女の子を連れて歩いているアメリカの軍人であふれていた。アメリカ軍の顧問団の非常に大きな営区は中山北路の要道の附近にあり、街や店の前にはPXから流出した舶来品、洋酒、輸入煙草が充満していた。空気の中には、酒と大麻の煙が充満していた。夜の間は、アメリカ帝国主義軍人が酔っ払い叫ぶ声で一杯であった。中国の土地で治外法権を享受し、あたかも「租借地」を再生していた。
  学校や社会の大きな活動はみなアメリカの音楽を主軸としていた。大衆はアメリカの音楽に耳を傾け、これに合わせて踊った。台北の地には多くのアメリカ国旗がなびいていた。台湾政府は、国内では強硬に文藝出版統制条例を制定し、いのままに出版物を禁止し、歌を禁止し、文芸家・芸術家の思想が洩れ聞こえるのを抑圧した。しかし、外国の植民文化の氾濫現象は問うことはなかった。歓場酒店の中では、英語の歌をリクエストして、若い人たちは「AFNT」(アメリカ軍のラジオ局)を聞くのを誇りとしていた。この都市は帝国主義の再現する状況が充満していた。
  喜ぶことができるのは、このような一種の自尊喪失の時代の中で、文藝に迫害が加えられる制度の中で、一群の覚醒した青年がいて、思想と理念をもってお互い激しく揺れ動きあい、お互いに自己の作品の創作を鼓舞し合ったことである。戒厳令の高い城壁の中に、一つの突破口が出てきたのである!
  「コロンビア珈琲庁」。私がとどまり歌った場所は、このような青年が集まる場所であった。また、後に民歌誕生の揺籃の地でもあった。ここにやって来た学生、作家、画家、占卜家、音楽家は、一人一人ギターを持って順番にステージの上で歌い、語る熱血青年であった。 (5へ)