台湾少数民族闘争史 80年代、ある台湾原住民運動指導者の回顧と運動

アキン・ロソラモン(胡徳夫) 台湾原住民権利促進会創会会長


  光陰矢のごとし。小学校を卒業すると、台東市に行き、「淡江中学」が東部地区で山地学生を募集した試験を受けた。二名しか募集しないと知っていたので(応募者は100名以上)、希望を持つことなく家に帰り牛の世話をしていた。ある日の夕方、牛の背から降りるとすぐに、父親が私に、数日したらおまえは台北の淡水に行って勉強することになると知らせてくれた。青天の霹靂であった!牛の群から離れ、山や谷の草原から離れ、自分が作った漫画王国からも離れ、満面の涙で最後の我が子を見送る母親を置いて行かなければならなかった。いやいや兄さんについて、はじめてみる「汽車」に高雄から乗り換え、北上して淡水にたどり着いた。宿舎に入り、「淡江生活」がはじまった。ここは、音楽が充満する歌声の学校であった。朝から晩まで笑い声が絶えなかった。大きな敷地と樹齢百年の木々、赤い瓦と、白壁が淡水の夕陽の下で窓の外に神秘的な風景を生み出していた。これは私に深い深い感動を与えた。
  母校は、私に一般の中学校の学習課程を教えてくれ、宿舎の団体生活での規律と練磨、アメリカン・フットボールで培ったこと、合唱団の歌の基本のほかに、私に「自己の民族を瞭然」とさせる機会を与えてくれた。全省の特別試験で募集された「山地」学生は約30名いて、それぞれ異なる民族からなっていた。それ以前には、基本的に、その他の民族の存在を知らなかった。ただ卑南族、排湾族、阿美族の三民族を知るのみであった。長い初等中学、高等中学の生活を経る中、中学校の夏冬の休みの間、その他の民族の同級生の部落を訪問する機会のうちに、異なる民族の多様な生活形式と言語表現方法、さらに歌舞の文化を体験した。さらに進んで、私たちのような所謂「山地人」「蕃仔」は、もともとみな喜んで施しを行う自然豊かな民族であり、台湾の土地の主人であることを知った。特に、中央山脈に登り、美しい東海岸を臨むと、このような誇り高い感動があった。これだ!私たちは、すばらしい土地を大漢民族に施したが、彼らは骨の髄まで食べ尽くして、私たちが自分のために最後に残しておいた一切のものも取り去るつもりだ。官民一体の略奪だ!
  その年の夏休み、家は暴風雨にあった。大人たちが話すのを聞いたところによると、昔の旧部落あるいは現在移った新しい村では、その周辺の環境は暴風雨によって山に洪水が暴発することはいまだなかった。さらに、山の洪水の後、河の水が枯れることもなかったし、河床が変化し高くなる現象もなかった。みんなは、ようやく徐々に政府が私たちの村を移動させたのは、実際は管理を便利にするためだけでなく、我々の民族が古来より持っていた中央山脈の原始森林や鉱産物、土地を取得するためであったことを知った。私たちの民族の命脈たる民族全体の財産を国有林地として、林産を保護するという口実で、実際は略奪と破壊を進めている。その実は、官民が計画した略奪の陰謀であった。所謂検査所はその実、林木の伐採所であった。そうでなければ、短い年月で、台湾の伐採経営者の隊伍がどのようにして私たちの祖先伝来の狩猟区と土地の中にある原始林を切り尽くすことができようか。伐採の無残さは見るに堪えられない。最後の雑木まで伐採を逃れることが難しい運命なのだ! 多くの村は洪水の攻撃と土石流が襲う危険に直面しているではなないか?
  政府は搾り尽くしたあと、少しの経済利益も私たち原住民に残さなかった。逆に、逃れることが困難な山洪水の暴発、河の枯れること、壊された桟道が、私たちが受け入れなければならないものなのだ!これは、今まで台湾の原住民に対していろいろな面で普遍的に認められる「せざるをえない」ものである。私たちをたえず「辺境」へ、「虚無」の態度へ押しやっている。
  初等中学一年の時は、台北の中華商業街でうろついて、原住民の同胞を街中で見たことはそれほどなかった。しかし、数年後、海に出て魚をとるものがいたり、あるいは土地をおわれた同胞が台北、基隆の至るところにあふれていた。もともと自給自足の民族であった。いったい何が起こったというのだ?村にはただ老人・病人・女・子どもだけが残されたのではないか?ある漢族の高等中学の学生が、得意げに私の同級生に、北投駅にあまり遠くない鉄道のそばにある簡素な木板張りの家の中の12、3歳の「原住民の売春婦」を買ったと話していた。ああ!可哀想かな、我が民族、我が民よ!
  慈愛に満ち厳格な淡江中学の校長、陳泗治先生は、学期中に何回か「山地学生」との懇談を設定してくれたが、その談話の内容から私が得たことは、淡江に来ることは、ただ学習課業だけでなく、自分の民族問題を考えることも重要な課題であるということであった!民族が被った困難な環境を考え、心理的な準備をしておくことは必要である。日中の忙しい課業は、完全に私の心の中を占めることはなく、私は絶えず問題の中をどうどう巡りしていた。
  初等、高等中学の夏冬休み、校長は、私ができるだけ学校で働きながら勉強することができるように手配してくれた。仕事は、学園内の掃除であった。たまに私を誘ってくれて、先生の家で食事になった。食事の席の間、私が忘れがたいことをいつも話してくれた。
  中学校校長会議に出席して戻ってきたばかりの校長は、教育部や救国団の風潮に対してすこぶる不満を抱いていた。特に、学生の頭髪を三分刈に制限するという新しい規定に対しては憤慨していた。彼はこれは「人」に対する圧迫であるとみなしていた。彼は「二・二八事件」を話してくれた。彼の前任の校長の姓も陳といい、「二・二八」で迫害された第一波の知識人であった。学校の中で軍車にのせられ、全校の教師生徒に向けて別れを告げた後、再び彼の姿を見た人は誰もいなかったのだ!このことは、小学校の運動場と強制的に連れてゆかれた二人の兄さんたちの情景を思い出させた。心の中は、怒りと恨みでいっぱいになった。学校の教官は、高校中学時代に私を入党させ、軍校を受験させようとしたが、すべて私は断り、一生国民党に頭を下げないと誓った。
  大樹と緑地、美麗と静寧、まさにこれらは錯綜し複雑な事務的な思索にとってすばらしい地であった。今、すでに亡くなった陳泗治校長の過去の期待と言葉を思い出すと、心中慚愧の念がたえない。彼はいつも私を目覚めさせ、自己の民族の言語が失われる問題を注意させ、私が言語文字の上に創造を行い、民族の言語をとどめることを激励してくれた。日増しに悪化する民族の環境に心と力を尽くすことも励ましてくれた。淡江の6年は、実りの多いものだった。美しき6年。私は、良き師が苦労して耕してくれた一つの土地である。私が台大外語部の入試を第一志望としたその年(1968年)、泗治先生は母校で私に会って、「あなたの学習環境はもう一つ別の階段へ進もうとしている。しかし、忘れてはいけない。君たちの民族も大きく険悪な変化の前に臨んでいること。君は、淡江のすぐれた種だ。さらには君たち民族のすぐれた種だ。努力して自分の土地を豊かに耕すことを学びなさい!」 (4へ)