台湾少数民族闘争史 80年代、ある台湾原住民運動指導者の回顧と運動

アキン・ロソラモン(胡徳夫) 台湾原住民権利促進会創会会長


  毎日朝、父親は、私を起こして読書をさせた。その後、私は牛にのって山の上の台地の草原に行き牛を放牧した。そして急いで旗が掲揚される前に学校へ行き、学校を終えた後、再び牛を草原で集め、大きな石の上に腹ばいになって、大武山と太平洋を眺め見たりした。夕方、牛を連れて学校の運動場へ行き、同級生たちと一日のうちで最も楽しい「おにごっこ」をした。週刊漫画の「葉宏押的四郎與真平」は、私たちが最も好きだった。まわし読みをすると、私はその回の内容に基づいて、組に分け漫画の中の登場人物に扮し、自製の木刀、木製手裏剣で実際にチャンバラをした。私はいつも草原で練習していたので、自然に刀技が人より優れ、同級生達に「四郎」とたたえられ、彼らの統領となった。私たちはこのような遊び方法で、本来静かな村を「刀を見よ!」「手裏剣を見よ!」といった掛け声で満たしていった。何人か私たちよりも数年早く卒業した少年がいて、山の上の仕事から下山して運動場を過ぎるまで、陣営のなかに加わり、陣杖を使ってますます収拾がつかなくなった。
  これは、外の世界を知らない小さな子供たちが発展させた遊びとルールにすぎないかもしれないが、私たちが山や谷の下で演じた一つの別世界の生活なのである。私たちの生活の中でも最も真実の部分であり、その中には当然善悪の区別があった。他愛のない遊びに過ぎないが、このような「世界」の中で、私たちは大人の世界の恐ろしい側面を目の当たりにした。小さな子供たちが奸臣大人の行いを目の当たりしたのち、ちょっとした疑念と驚きと懼れの気分の中で成長し、大人たちを懐疑の目で見ているのが「仮の遊びにすぎないものが、いつしか真実のものになる」ようになった。
  1960年の夏。日中の暑さも7時、8時まで続くとようやく涼しくなる。毎週時間どおりにやってくる週刊漫画は、私たちが「操兵練剣」をおろそかにするのを止めさせた。運動場では私たちのこのような「漫画知識分子」がいっぱいいた。この時は、私より4歳年上(15歳なったばかり)の鐘兄さんと曾兄さんも私たちに加わった。勝敗は、兵家の常であるが、子供たちはみんな負けるのは潔しとしなかった! 負けたある者は、気を高ぶらせて木刀を持って家に帰り訓練をした。またある者は、別の時間に川辺で一人挑んでいた。そして、この二人の兄さんはルールに習熟しておらず、また技巧も優れておらず、木刀をいつも打ち落とされて、体にいつも手裏剣を当てられて打ち負かされていた。しかし、彼ら二人は負けた後の行動は他の人とは違っていた。彼らは字を刻んでうっ憤をはらしていた。運動場の木々のなかに、二平方公尺のペンキ塗りの鉄製の蒋介石の像があって、目につきにくい小さな窪みには、石で刻まれたたくさんの「死ね!刀を見よ!手裏剣!」などの字の跡があった。もしじっくり見なければ、字の形はわからなかった。当然、どんな災難があるかも見えなかったのだ!
  そして、三日目、村に2台のジープがやって来た。ジープには4、5人が乗っていた。そして、例の像をじっくりと見て写真をとった。しかも、ただあの字のくぼみをとったのだ!(実は、ジープが村に入ってきたとき、私たちはジープを追いかけて、ジープの後ろの踏み板を追ってかけ跳ねていた。まっすぐ、学校の運動場に向かった。車は村の中では、珍しいものであった。車がとまったあと、私たちは戻って、ジープの散熱板の上の蝿の死骸を数えた)。
  しばらくの談話の後、「採証人」の中に私は、私たちの国民小学校の教導主任も彼らの中にいてあら捜しをしているを見た。ジープが村の第7、8鄰の場所へ行き、それぞれ鐘兄さんと曾兄さんの家の前に止まった。すぐに彼ら二人が補導されて出て来るのが見えた。車の後の塵と埃の中に、私たちの敬愛する二人の兄さんを一緒に失ってしまった。後で、大人が言うのを聞いたところによると、あの人たちは「地下工作員」で、像に字を刻んで諜報活動をしているものがいると通報した人がいて、捜索逮捕が行われ、鐘、曾の二人が連れてゆかれたのだ。
  どれほど長く拘禁されていたかは知らない。「あぁ!」と私は声をあげて泣いた。わずか15歳、彼らもう……。私は絶対、このような大人のやり方を許さない。今でも許すことはできない。将来もまた許さない!(3へ)