台湾少数民族闘争史 80年代、ある台湾原住民運動指導者の回顧と運動

アキン・ロソラモン(胡徳夫) 台湾原住民権利促進会創会会長

1.出生・嘉蘭・七部落務局

  1950年冬、母親とつながっていた臍の緒が祖父の両手の中で切り取られ、卑南(ピーナン)族の土地(台東卑南郷檳椰村)に産声を上げた。父親は、日本占領時期は警察で、解放後は戸籍課員に転任した。母親は、南大武の排湾(パイワン)族、森永頭目の三女であった。民族をまたがる結婚で、「卑南・排湾族」である私たち六人が生まれた。父親は、当時としては高級知識人と言えるようで、そのため当時外省人が接収管理した警察局のなかでの仕事上のことで、すこぶる不満を感じており、戸籍部門へ入ることを願い出てた。交流もせず、会議にも出席せず、ひたすら記入用紙に必要事項を記入し、戸口事務の仕事を処理していた。当時、台東新港警局から金峰郷公所の戸籍課長に転任したが、郷公所がある部落は、政府が山奥にある七つの排湾族の部落を移動させる予定地の中でも最大のもので、部落名は「KA−A−RU−WAN」から「嘉蘭」と命名された。私たち一家は、1952年にここにやって来て、七つの部落の人々が次々と移ってくるのを待っていた。
  七名の頭目は、昔から長く住んでいた七つの山奥の地区からやって来てきた。その森の中で数千年の間豊かに暮らしていたが、台湾を征服した蒋介石政府が、管理を便利にするという理由により、たくさんの部落を台湾全域の山奥にある故郷から海から比較的近い場所へ強制的に移るように命じた。その入り口のところには「入山検査所」を設置し、いかなる入山者も検査するようになった。もともと高山族に属してたが、いきなり近海の民族に変わってしまった。これは当時の台湾原住民が一つの強権時代に直面したどうにもしがたいことであった。「故郷を放棄すること」は、民族没落のはじまりであり、「狩猟地域を守ることをやめること」は、民族の権力喪失の象徴を代表するものであり、「祖先の墳墓を捨て去ること」は、民族がよりどころをを失う原因である。
  七名の頭目は民を率いて、領地を放棄し、太麻里渓谷に沿って嘉蘭にたどり着いた。集まり、ここで涙をながしながら荒地を切り開いた場所、このような民族の心中の失意と悲痛を思い知ることができようか。
  このような民族が語ることができるのは、まだ新しい政権との出会いは、その権威をただ受け入れ、また犯しがたいものであったということである。それは道理をもって理解する術はない。みんなが心のうちに受けた痛みは深く心に染み入るばかりである。
  排湾族の生産方式は、この約500人の村の中で、ずっと集団合作の労働力を交換して協力し合う方法で開墾し、耕作し、収穫し、家を作るものであった。農産物は主に自足の目的で、とうもろこし、山芋、粟、芋類などであった。身は村の一部分となり、父親が公務で忙しい中で開墾・生産活動を行った。村の中の二軒の雑貨店が、全村の日用品の供給場所であった。当時、外へ出た人間の数は、学生が学問のために外へ出るほかに、青年が軍隊に入隊したり、女性が嫁ぎに行ったりするもので、ほとんど外への流出はなかった。
  私の小学校、嘉蘭国民小学校の各学年は、たった15人ほどであった。私が1965年に入学した時は、まだ6歳に満たなかった。母親は郷民代表で、すぐに国民党に吸収され、いつも私を連れて会議に参加した。夜の間、母は政府が行う「民衆補習班」の国語学習へ参加した。当時は、多くの人が国語を話せなかった。しかし、政府は依然として「会議は国語を話すこと」、「学校では方言を話してはならない」と定めていた。嘉蘭国民小学校の先生は、多くはみな外省人であった。校長は安徽人で、教導主任は福建人であった。解放のはじめに軍隊に随って台湾にやって来て、本村の女性を娶って住まいを構え、教職活動に転任したものであった。実際、学校の大小の事務はみんな教導主任により定められ、家長、生徒はみな彼を懼れていた。公務員も彼を懼れた。彼は「地下工作員」で「検挙諜報」を専門としていると言われた。(2.へ)